礼拝6月02日

 
交換講壇のためメッセージ省略

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  週報より

 「明けない夜はない」より「幸せなら手をたたこう」作詞家木村利人

 誰もが知っている「幸せなら手をたたこう」。坂本九が歌ったこの歌は、東京オリンピックを機に世界中に広まった。しかし、この歌が戦争の苦しみ、痛みから生まれたことを知る人は少ない。作詞家の木村利人さん (早稲田大学名誉教授)は25 歳の時、フィリピンのワークキャンプに参加。戦後14 年のフィリピンはまだ戦争の爪痕が生々しく、反日感情も激しかった。しかし、現地の若者は 「愛し合い、赦し合って生きよう」と、日本人の木村さんに態度で示してくれた。その思いを歌にしたのが 「幸せなら手をたたこう」だった。1959年、早稲田大学大学院生だった木村さんは、フィリピンで開かれたYMCA の国際ワークキャンプに参加。炎天下の中、約 1か月間、小学校の運動場のバスケットボール建設、校舎の外側の排水溝工事、簡易 トイレの穴掘りなどの労働奉仕に従事した。その時、戦後、最初のその地に来た日本人の木村さんは、村人たちの恨みや憎しみのまなざしにさらされることになった。

 それでも、共に汗を流し、作業をし、朝タの礼拝で聖書を読み、祈り、話し合う中で、憎しみの感情は薄れ、だんだん打ち解け合ってきた。そして、フィリピンの若者がこう言ってくれた。「戦争が終わっているのに、日本人を殺そうと思ったりしたのは間違いだった。若い世代の僕たちは愛し会い、赦し会って生きよ う。再び武器を持って戦うことはやめよう」。「すさまじい反日感情を持っていたフィリピンの人たちが、次第に心を開き、親切を"態度で示して゛くれたことに感動しました」と木村さんは語る。 日本に帰るフランスの貨物船の中で、フィリピンの人々に感謝の思いを込めて作ったのが 「幸せなら手をたたこう」だった。「たまたまキャンプの合宿所だった小学校の校庭で村の子どもたちが歌っていたスペイン民謡を耳にし、その曲に詞をつけた。歌調は、英文聖書の詩篇47篇 1節 『すべての民よ、手を打ち鳴らせ』(新共同訳)がヒントになった。態度で示してくれたフィリピン人に感謝の意を込めて、『幸せなら手をたたこう、幸せなら態度でしめそうよ』になりました」。こうして 「幸せなら手をたたこう」が誕生した。