礼拝5月19日

 

「ミレトでの説教1−主に仕える」

聖書箇所「使徒の働き20章17〜24」

  礼拝メッセージ要約

 パウロは第三次伝道旅行が終わりに近づいたと感じ(56年頃)、5旬節の日(ペンテコステ)にはエルサレムに着きたいと願って旅を急ぎました。エルサレムに急いだ理由は1コリント16章に記されていますが、エルサレム教会を助けるために諸教会から集めた献金や支援物資を届けるためでした。なぜならば、パウロの頭にはキリスト教会は一つという理解がありました。同時に、早い段階で、各地に誕生した教会では長老制度のような教会の働きを担う人々の組織が出来上がっていました。ここに初期キリスト教会のあり方が示されています。キリスト教会は一つであっても、その責任と役割が地域教会の人々に委ねられたのです。

 パウロはエペソの長老たちをミレトに呼び集めて話をしましたが、ル力はキリスト者に向けた唯一のパウロのスピーチ(説教・演説)として使徒20章l8以下に記録しました。その内容は、殉教を恐れない宣教者の思いを示しています。その特徴は「主に仕える」(19節)という言葉に表れています。パウロは「使徒」という言葉を用いることによって、神の意志を聴き、それに従うことを第一とする信仰者でありました。私たちの主イエス・キリストさまは全人類の罪を贖うという神の意志を実行するために、十字架が待ち受けていたエルサレムに入城し、ゲッセマネの園で苦悩する祈りをささげ、死を経験し、死から復活への道を進みました。神の苦難の僕であったイエスさまに従い続くように、パウロは 「神の僕イエスさま」の僕の道を選択したのです。「主に仕えること」はパウロだけの問題ではありません。全てのキリスト者にあてはまります。
 
 パウロは「あなたがたは、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。・‥・あなたがた はみな、キリスト・イエスにあって、一つのからだです」(ガラテヤ3章26〜28)と言いました。私たちは信仰によってイエスさまに結び付くので、イエスさまの苦難にもあずかるということになります。エペソの長老たちにその事実を思い出させることによって、教会の指導者という立場の厳粛さと光栄を語るのでした。そして、主に仕えることは「キリストの体である教会に仕える」ことと長老たちを教えたのです。